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なりきり自伝「メジャーリーガー編」

メジャーリーグ

まえがき

小向慎太郎、20才です。ご存じと思いますが、今は単身アメリカに飛んで2年目、NYヤンキースのエースで4番を任されています。

昨年は新人賞、サイヤング賞、ゴールデングラブ賞にベスト9、数ある賞を総なめした俺ですが、まだまだ今年はそれ以上の結果を残すつもりなので、期待していて欲しいと思います。

今回、僭越ながら「自伝」を出版することになりました。まだ20年しか生きていない僕ですが、出版社の熱い要望により、引き受けることにいたしました。

この本が多くの人々、特に子供たちにとって意味のあるものになればと強い思いを込めて、執筆いたしました。

僕の夢をかなえるまでの軌跡が、皆さんの夢を後押しできれば幸いです。

 

幼少期

リトルリーグ

鹿児島で生まれた僕は、裕福では無いにせよ、何一つ不自由のない幸せな家庭で育ちました。

住んでいた場所がかなりの田舎であったため、友達は少なく、遊び相手はいつも山、海、森、川、野犬、イノシシ、熊、などの「自然」でした。

そんな環境で、6才まで育ちました。

小学校に入学すると、父親の勧めで近所の「リトルリーグ」に通うことになりました。これが僕と野球の、初めての出会いになります。

ボールやバットなんてのは、それまで触った事もないズブの素人でしたが、なんとなく感覚で投げた初めてのボールは「140K」を超えていたそうです。

感覚で振ったバットは、芯に当たらずともボールを150m向こうへ軽く運んで行っていたそうです。

利き腕の使用を禁止

小1のレベルでは相手を怪我させる恐れがあるという事で、僕は利き手を使用する事を禁じられました。

つまり、元々右利きだったので、左投左打、に変更した訳です。

ところが、困ったことに左でも「130K」は軽く超えてしまい、打っても「130m」は楽に超えてしまいました。

見るに見かねたコーチの方は、僕に「1割」の力でプレイするように、と念を押し、さらに体には90Kgの重り、バットは竹刀、とその他様々な足かせを付けるのでした。

しかし、そんなハンデを背負いながらも、小1~小6までの6年間、チームの柱となり、チームを6度世界1に導きました。

小6になる頃には、球速は「180k」を超えていました。

中学時代

シニアリーグ

中学にあがると、全ての強豪シニアリーグからのスカウトがありました。もちろん、海外からのスカウトも。

しかし、自分の力を試したい気持ちが勝り、弱小リーグに入部する事に決めました。そうです、僕には1人の力で、世界を制するという野望があったのです。

入部したシニアリーグは、単なる同好会的なチームでしたが、1年目で世界を制する事になりました。

そこから3年まで、計3回全国制覇、世界制覇を成し遂げました。

中3のころには、球速は「210K」を超えていました。バッティングの飛距離は、250m前後でしたね。

小向・フェンス、小向・キラー

僕の打ったボールが軽く球場を超えていくため、周辺の車や家屋、インフラの破壊、通行人を、、等の被害が多く発生しました。

そのたびに「小向・フェンス」と名付けられた場外弾を防ぐ高いフェンスが備え付けられましたが、それすら軽々と越えていくので、結果的に360度フェンス張りのゴルフ場みたいな感じになりました。

そして、中学後半のころからでしょうか、僕との対戦を避けるために、わざと4球を出す「小向・キラー」なる戦法をよく使われるようになりました。

僕以外は弱小メート共なので、僕との対戦を避ければ勝てるとの算段だったのでしょう。

ところが、野球は打たれなければ負けません。僕が投げている時点で、負けは無いのです。

さらに、それまで盗塁は卑怯者のやることだと決めつけていた僕の気持ちが変わり、ばんばん盗塁するようになりました。

僕が50mを3秒で走れる事を知ったのはこの頃でしたね。実は足も速かったのです。

ですから、小向・キラーの戦法も、ひとたび僕が塁に出ればグラウンドをかき回し、ホームスチールで1点という意味のない戦法になってしまったのです。

高校時代

甲子園6連覇

高校のスカウトも全て断り、むしろ野球部の無い学校に進学し、そこで適当に雑魚8人を集めました。そうです、甲子園を1人で制覇する為です。

高1ですでに260kをマークしていた僕に、最早敵はいませんでした。

春、夏の大会、在学中の大会は全て、制覇しました。史上初の、6連覇を成し遂げたのです。

さらに、その6連覇、全て3球3振で仕留めました。甲子園通算810連続奪三振だったかな?もちろん全ての試合は完全試合。

外野が無観客だったのは、記憶に新しいかもしれませんね。僕の打球で人を殺めかねないからです。

世界3連覇

高校の世界大会も、俺の力で3連覇させました。

3連覇後の3年の秋、俺はようやく本気を出して「メジャー挑戦」を目標としました。

そうです。身につけていた90Kgの重りを外し、バットも竹刀から普通の木製バットに切り替えたのです。

素手ではなく、グローブも付けるようにしました。サンダルもスパイクにちゃんと変えました。

そんな状態で測定した各種の結果は、球速320k、飛距離310m、遠投1Km、50m走2秒、と、まあまあの記録が出たのです。

そして、これを見ていたNYヤンキースのスカウトが、破格の条件を僕に提示してきたのです。

メジャーデビュー

NYヤンキースと40年契約

スカウトが提示してきた内容は、契約金10億$、年俸1億$、+出来高1億$、の40年契約でした。

僕の身体能力を見越し、60才までは現役で活躍できると踏んだそうです。

つまり、この破格の条件と引き換えに、NYヤンキースは「ワールドシリーズ40連覇」の偉業を成し遂げようとしているのです。

18歳でNYヤンキースに入団した僕は、見事エースの座を奪い、中1日で先発完投し、100試合強を全て勝ちで終えた。防御率は0.00。球速は224マイルを優に超えました。

打線では4番を任され、打率8割9分5厘、245本塁打でシーズンを終えました。

もちろんチームは、ワールドシリーズを制覇しました。

NYヤンキースの資金繰り

僕の年俸のせいで、資金不足が否めなくなり、大幅な選手のリストラにうって出たようです。

今チームには、僕意外の選手は50代前後の格安メジャーリーガー(というか球団職員)しかいません。たしかみんな年俸は250万とかいっていた気がします。

つまり、ここメジャーリーグでも、僕は1人の力で勝利をもぎ取っているのです。

これから40年、先は長いですが、前人未到の40連覇を、成し遂げようと思っています。

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